追悼 田部井淳子さん(元Hat―J代表
【 田部井淳子さんと北大ワンゲルの仲間達 】
                               大内倫文(居酒屋つる店主) お店情報
                    
   
 奥手稲山の家:右から2番目小野達夫、3番目 真嶋花子、左端 田部井淳子、座っている末吉祐子(敬称略)  手稲ハイランドスキー場::右から 末吉祐子、小野達夫、田部井淳子、真嶋花子、北村節子(敬称略)

 1986年12月、北大ワンゲル現役で水産学部の小野達夫は大学を休学して、東京丸一商事のアルバイトでチリ南部のケジョンと云う村に住んでウニの加工場で働いていた。アルバイトの期間が終わり首都サンチャゴへ行き、日本人貧乏旅行者御用達の宿で南米の登山事情に詳しい長澤正と云う人と知り合う。
 パタゴニアへの旅の途中、長澤氏に電話をすると、田部井さんのアコンカグアツアーのガイドをするので手伝わないかの誘いを受け。急きょサンチャゴへ戻り、田部井さんのアコンカグアツアーの現地ガイド助手となった。
 田部井さんは、「西遊旅行」の企画により、はじめてツアーリーダーとして女7人、男4人の11人、30歳から65歳までの即席登山隊を率いてアンデスにやって来た。目標の山は、チリとアルゼンチンの国境にまたがる南米の最高峰アコンカグア(6959m)である。結果的には、女5人男1人の計6人が頂上に行くことができた。田部井さんはもちろんのこと初期の段階で高度障害に苦しんでいた小野も若さを持って登頂することができた。尚、この隊にはHATJ北海道支部会員で帯広在住の真嶋花子さんが参加していた。この登山をきっかけとして真嶋さんはその後田部井さんとチベットのチョー・オユー(8201m)や南極のヴィンソン・マシーフ(5140m)など多くの山を共にすることとなった。
 そして、小野は帰国後の1987年3月、アコンカグアの手伝いのご褒美としてネパールのアンナプルナ内院トレッキングのツアーコンダクター助手として田部井さんに誘われて、満開に咲き誇るシャクナゲを見るツアーを満喫して来た。
 今度は小野が田部井さんにお返しの企画をたてた。アコンカグアのメンバーであった田部井さんを含む真嶋さん、高橋さん、五十嵐さんと共に1988年1月16日に手稲山山頂経由で北大ワンゲルが管理する「奥手稲山の家」への山スキーツアーである。一行は山の家に1泊して翌日は迷沢山を越えて街に戻った。この時、後に田部井さんとインドの山を共にすることになる小野の3期後輩にあたる2年生の末吉祐子も一緒だった。宿泊は市内のどこかのホテルだったようだが、北8条東1丁目にあった北大生ご用達である玄関一つ共同便
所のかなりくたびれた建物の寺井アパートに立ち寄った。このアパートは代々ワンゲル部員が住み着いていた。いわゆる貧乏学生のたまり場であった。そこには、末吉と同期の細身で一見か弱そうな住人、宇野大輔がいた。田部井さんは彼をたいそうに気に召したらしくミスター・ヒンソウと云う新しい名前を授けたそうだ。

 そして、8月になり末吉が田部井さん率いる日本山岳会婦人部インド・ヒマラヤ シヴァ峰(6238m)登山隊に参加した。13人の隊員の中での最年少の隊員であり、お母さん隊員たちに大変可愛がられたようだが、残念ながら当人は登頂することができなかった。以後、末吉は“田部井母さん”と親しみを込めて、常に怒られながらも良き関係を続けてきた。手紙も出さず連絡を途絶えていると、“お前は字を書けないのか?”と怒られたこともあったそうだ。それ以後時、HATJ事務局の手伝いもしていたようだ。
 翌1989年2月24日。田部井さんが女子登攀クラブで田部井さんの参謀である北村節子さんと札幌にやって来た。この時、田部井さんが北村さんにミスター・ヒンソウを見せたかったのか、北村さんが見てみたいと思ったのかは謎である。小野は函館で学業終盤であったにもかかわらず、何故か北9条西3丁目の伊藤方に1部屋をかまえていた。この伊藤方も寺井アパートと同様にワンゲルの住処となっていた。二人はその部屋に泊まり、翌日に手稲ハイランドでスキーを楽しんだ。夕方になって帯広から真嶋さんが来て、今度は3人で
狭い部屋に泊まることになった。小野に云わせると、あんな部屋にどうやって3人も泊まれたのか不思議だそうだ。山女なればのことであろうか。夜には「つる」に来ていただいた。ひょっとしたら、この時が私にとって田部井さんとの最初の出会いなのかもしれない。何故か田部井さんが黒い汚い男物の長靴を履いていたのを覚えている。どうしたの?と聞いた所、玄関にあったので履いてきたとの返事に唖然とした。最後の日は、定山渓の札幌国際スキー場で小野や末吉達とスキーを楽しみ、夜は寺井アパートの住人を含めた総勢12名で
、札幌駅近くの「うおや一丁」で大宴会をしたらしい。

 その後時は流れ、田部井さんのとりもつ縁と云う訳ではなく学生時代からの長い付き合いの末、小野達夫と末吉祐子は結婚をした。 2016年10月22日。横浜に住んでいる小野(末吉)祐子から田部井さんが亡くなったとの一報が入った。田部井さんの闘病のことはそれなりに聞き及んでいたが、こんなに早くとは・・・。昨年、田部井さんとネパールを共にしたHATJ北海道支部事務局長の宮崎さんによると、以前の田部井さんと違ってそれなりに弱っていることを聞いていたが、そして福島の子供たちとの富士山登山でもそれな
りに元気にしていた姿をみたばかりなのに・・・。

 小野によると、病院にお見舞いにも行かないうちに田部井さんが亡くなってしまったと、祐子はしくしくと泣いていたらしい。
 11月下旬、日本ヒマラヤ協会から「田部井さんのお別れ会」の案内が届いた。行かなければと思うものの残念ながら参列することが叶わない。本人が参加できない場合は、どなたでも代わりになる方を推薦しても良いとのこと。すぐに小野(末吉)に連絡をする。ありがたいことに小野夫婦とミスター・ヒンソウこと宇野の3人で参列する旨の返事があった。私の分もお別れしてくれと頼む。
 近年はお会いする機会がなかったが、田部井さんとは何度か一緒に酒を酌み交わし、山にも一緒に行くこともできた。最初は、支部創立記念での空沼岳だった。そ後、旭岳、樽前山、手稲山スキー、然別湖・白雲山を共にした。 福島弁のべらめい調である田部井節がもう聞けないと思うと淋しさが増してくる。至極、残念無念である。
 一つ一つが良き思い出として甦る。どうぞ安らかにお眠りください。                          合掌
                                                             (2017.1.8

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