郭沫若・をとみ と 陶晶孫・みさお 顕彰碑 
この碑は、宮城県黒川郡大衡村大衡字平林の『昭和万葉の森』の一画にひっそりと建っていました。今ではこの碑を訪れる人も無く、地元でも知らられていないようです。

 

顕  彰

 大衡村大衡字中山出身佐藤家の姉妹 郭をとみ(安娜)

陶みさを(弥麗)は 昭和史激動の渦中 姉妹共々中国留

学生と結婚 をとみは 後の文豪副総理 郭沫若先生と

みさをは医学者文学者陶晶孫先生の伴侶として互いに協力し 日中

の架け橋となられました 姉妹は厳しい世相と背景の中で

両国の動向に強い関心を寄せながら生き抜く現実は想像を

絶するものがあったと察します 今や国際化時代 日中の

友好親善を益々深める必要を痛感します ここに中華人民

共和国特命全権大使徐敦信閣下の御配慮により 詩人林林

先生の揮亳を掲げ顕彰碑を建立し二人が果たした偉大

な足跡を後世に伝えるものであります

        平成六年 弥生 大衡村顕彰者一同   

   
   
                  『万葉茶屋』

 陶晶孫について。

1,澤地久枝『続昭和史の女』文春文庫1986年初版「日中の懸橋 郭をとみと陶みさを」

二人の姉妹の事は、澤地久枝さんが自ら調べ、この本に詳しく書かれています。
  2、丸山昇著『ある中国特派員 山上正義と魯迅』中公新書刊 1976年初版より。

《「陶さんという、たしかお医者さんがしました。背の高い人でした」と、トシ子(山上正義)夫人の答えがあった。いうまでもなく陶晶孫であろう。陶晶孫は1906年満八歳の年に、姉とともに父に伴われて来日、東京の錦華小学校から、府立一中(現日比谷高校)、旧制一高を経て九大医学部を卒業した。夫人佐藤操(みさを・陶弥麗)は郭沫若夫人佐藤たみ(をとみ・郭安娜)の妹である。在日中から創作をしている。1929年5月、東南医学院教授に招かれ帰国、その年の6月から、郁達夫のやっていた雑誌『大衆文芸』の編集を受けついでいた。この人は戦後1950年再び来日し、謝冰心のあとを受けて、東大文学部の講師もしたが、52年2月に死去した。すぐれたエッセイ集『日本への遺書』の著者として知られる。『大衆文芸』の編集や、後述の芸術劇社の活動など、この時期は陶晶孫の一生のうちで、もっとも行動的だった時期である。》101-102頁。
 3、尾崎秀樹著『上海1930年』岩波新書刊 1989年初版より。

《また陶晶孫は日本で学んだ医師で、作家で理学博士でもあった。江蘇省無錫の旧家の長男に生れた陶は、八歳のおり、父や姉とともに日本へ渡り、神田の錦華小学校、府立一中、一高を経て九大医学部へ進み在学中に郭沫若とともに同人誌『グリーン』を創刊し、日本文で「木犀」を執筆、話題をよんだこともある。
 その後東北大学で物理学教室に再入学し、同時に医学部生理学教室で音響生理学を専攻、東北大学交響楽団の指揮者だった時期もある。1924年仙台で郭沫若夫人・佐藤をとみの妹操と結婚した。創造社との関係は結成当初からで、『創造月刊』や『洪水』などの機関誌にもたびたび短篇を発表、1927年には作品集『音楽会小曲』を上海で出版した。》82頁。
 野 呂 ア イ著(尚絅学院大学名誉教授)『高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史(2008年9月23日)産別記念・労働図書資料室サイトより
《吉野作造(宮城県志田郡大柿村・現大崎市古川)の民主主義、自由主義、平等、平和を求める活動は尚絅女学校の学生たちに何らかの影響を与えたであろうと思われる。尚絅が世界に開かれており、アジアに目を開いた交流として、すでに同窓生の佐藤をとみ(郭安那)と佐藤みさを(陶弥麗)姉妹による中国との交流という事実があった。日本における身をかくすような彼女たち家族の生活の支えに、吉野の存在があったことは否定できないだろう。

吉野作造は、1906(明治39年)、中国に渡り、袁世凱の長男袁克定の家庭教師を務めたことがある。

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