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【特別寄稿】『ハイランド』の山旅 2019〈1〉田中健(会員)

辻村伊助の100年前の足跡をたどって

■冬のスコットランド

イギリスはスコットランドのアバディーン大学に留学している、妻の職場(環境省)の元同僚から、12月はヒマなので遊びに来ないかとのお誘いがあり、夫婦揃って2019年12月16日〜24日の日程で出かけて行くことにした。
どうせ行くなら、山にも登りたい。スコットランドのハイランド(高地地方)は14年前に訪れたことがあり、英国最高峰のベン・ネヴィス Ben Nevis(1345㍍)やスカイ島の山に登っているが、それは9月のこと。今回は時期が時期である。といっても、12月14日に行われるブレグジットを争点としたイギリス総選挙の直後であることが言いたいのではない。12月中下旬という季節が問題なのだ。クリスマス前の冬至のこの時期、北海道より緯度にして15度も北に位置するスコットランドは圧倒的に日が短い。陽はようやく9時に登って、15時半には落ちてしまうようだ。一日の行動時間は6〜7時間がせいぜいだろう。
また、スコットランドはミックスクライミングの本場だし、パウダースノーは期待できないものの最近はバックカントリースキーも盛んになってきているようなので、山スキーもしてみたいのだが、この時期にどれぐらい雪があるのかもよくわからない。何しろ今年は北海道も記録的な小雪だ。山スキーをレンタルできるか、現地の山道具屋にEメールを送ってみたが、一度はかなり積もった雪が、12月上旬に融けてしまったという話を聞かされる。
しかし、時期は決まってしまっているので、その中で一番楽しめるように考えて計画を練る。アバディーンから近いケールンゴルム山地は、英国最大の国立公園があるだけでなく、英国で一番雪が多いところなので、山スキーをするならここだろう。計画の参考にしたのは、walkhighlands.co.ukなどのウェブサイトや英語の登山ガイドブックなど。

それともう一つ、スコットランドの山といえば辻村伊助『ハイランド』。大正3年のスコットランドの山旅を記録したこの日記に描かれた場所を訪ねて、105年前の面影をたどってみたい。そんなことを考えて、札幌を出てから帰るまで9日間の計画を立てた。ルート的には、大ざっぱにいって辻村伊助のほぼ逆コースとなった。辻村が行ったのは6月だし、19日もかけているので、密度はかなり違い、スコットランドにいる7日間のうち、登山するのは3日だけ。しかし、スコットランド版百名山とも言えるMunro*には4つ登るつもりだ。スコットランド内の移動には、鉄道も使いたかったのだが、今回はエディンバラからレンタカーを使うことにした。私は運転できないので、申し訳ないが妻にすべてお願いするしかない。

*Munro:標高3000㌳(914.4㍍)以上のスコットランドの山をこう呼ぶ。サー・ヒュー・マンローが1891年に初めてリストアップしたために、この名前がついた。日本百名山と違い、名山を選定したものではなく、基本的に高さの条件をクリアした全ての山がリストに載っている。

12月15日〜16日

■古都エディンバラを観光

12月15日夕方16時、初めて利用する新千歳空港の国際線ターミナルからキャセイパシフィック航空で香港空港へ。民主化デモが続いているはずの香港だが、中国返還前の啓徳空港とは違って市街地から遠く離れた現空港では、そんなことは全く感じられない。23時55分発の便でロンドン・ヒースロー空港へ。ここからは国内線のフライビーの小型機に乗り、16日朝8時15分、丸一日以上かけてエディンバラに着く。

エディンバラ城

宿に荷物を置いて市内観光に出かける。まずはエディンバラ城へ。高さ100㍍以上の断崖・岩山の上に立つその姿は、「天然の要害」という言葉がピッタリ。大都市の中心部にあって、繁華街からもよく見え、こんなに存在感のある観光名所はなかなかあるものではない。

しかし、寒い。天気は好いし、氷点下ということはないのだが、底冷えがする。それから、文豪ウォルター・スコットを記念した尖塔、

OS(英国陸地測量部)の地形図

スコット・モニュメントを見て、辻村伊助も行ったカルトン・ヒルに登る。さらにホリールード宮殿では、1566年にメアリー・スチュアート(メアリー・オブ・スコットランド)に寵愛されたデヴィッド・リッツイオが暗殺された部屋がそのまま残されていることに驚き、エディンバラ城と併せて、血なまぐさいスコットランド史の一端に触れる。
そして、昼食時と夕食時には、古いところを中心にパブを4軒ほどはしご。英国伝統のキャスクコンディションのリアルエールと、スコットランド名物のハギスなどを楽しむ。ハギスはその後も朝食などで何度も食べたが、この日エディンバラで最初に行った店アボッツフォード・バーのものが一番洗練されていてうまかった。

この日はまた、登山に備えて、書店のウォーターストーンズでオードゥナンス・サーヴェイ(英国陸地測量部)の1/25,000地形図を何点か購入。1点が1000円以上したので、結構な出費。
予想通りだが、太陽は昇ったと思ったら、あっという間に落ちてしまった。明日からが心配。

12月17日

■ハイランドのロッホからロッホへ

朝8時にエディンバラ市内のレンタカー店で、妻の元同僚T、Tと同じ大学の若い学友で香港出身のJと合流し、ハイランドへ向かう。車は、シトロエンのスペースツアラーというミニバン。マニュアル車だというのはわかっていたが、小さな車のつもりが、3列シートの大きな車になってしまったのは想定外。マニュアル車にも大きな車にも慣れていない妻は、レンタカー店を出るときに早くもエンスト。その後も、赤信号で停止して再発進するたびにエンストしてしまう。
英国は日本と同じ左側通行なのはいいのだが、ラウンドアバウト(環状交差点)という難物がある。これに差し掛かるたびに妻はプチパニック状態に。また、スーパーで買い物をした際には、リバースギアへの入れ方がわからず、近くの工事車両のおじさんに入れ方を教えてもらうハメに。結局、この車のことでは、後々まで妻に大きな負担をかけることになってしまった。
この日の目的地は、「イギリスのアウトドアの首都」“Outdoor Capital of the UK”と呼ばれるフォートウィリアム。途中で、グレンコーなどの景勝地を巡っていく。

まずはエディンバラから高速道路M9で古都スターリングへ。そこからA84で北西へ向かう。前方、平原の向こうの雲がちの水平線上に、雪をかぶった山々が見え隠れしている。
カランダーから左折してA821に入り、西のヴェナッハール湖(ロッホ・ヴェナッハール)畔へ。今回の旅で初めて湖を見る。氷河が残したU字谷に水がたまってできた、ここハイランドやノルウェーなどに多いフィヨルド湖で、細長い形をしている。スコットランドでは、ロッホ(Loch)と呼ばれるが、こうした湖に海水が入って海とつながった入江、湾も同じくロッホだ。有名なネス湖も典型的なロッホ。
1914年6月27日、カランダーから2階建てバスに乗ってこの湖のほとりを通った辻村伊助は「ヴェナッハールの湖畔に近づく。街道はその北岸、ベン・レディ山麓の密林を穿ってゆくのだが、山は見えないが、森と水は極めて美しい」と『ハイランド』に書いている(以下、特に断りがない限り引用は同書から)。しかし、ここは正直言って平凡な湖である。現在はロッホ・ローモンド &トゥロサックス国立公園に属している。
辻村はここからさらに西のトゥロサックスまで行き、馬車に乗り換えて、ウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』の舞台、カトリン湖(ロッホ・カトリン Loch Katrine)に至り、外輪汽船で湖を渡って、歌で有名なローモンド湖(ロッホ・ローモンド)へ抜けている。この先の景観の方が美しいのだろうが、まだ先が長いので我々はカランダーまで戻り、A84を北上してLubnaig湖(Loch Lubnaig)畔に達する。湖を望む駐車場に車を駐めると、湖越しに南の方に雪をかぶったベン・レディ(879㍍)がよく見える。山の右半分は手前の尾根に隠れているが、雲が晴れてきて、かろうじて山頂も見えている。
辻村は6月26日にベン・レディに登り、「標高は低いが、神の山と云う名を得ただけに、カーランダーから見た形は美しい」と書いているが、確かに美しい山である。なだらかだが風格がある。名山と言えるだろう。標高が低いのでMunroではないが、Corbett*の一峰である。

Lubnaig湖とベン・レディ

*Corbett:標高2500㌳(762㍍)以上、3000㌳(914.4㍍)未満のスコットランドの山で、隣接ピークとのコルから500㌳(152.4㍍)以上の標高差があるピーク。ジョン・ルーク・コールベットがリストアップ。

■山スキーの山ベン・ローシュ

辻村が立ち寄ったロブ・ロイの墓にも行きたかったが割愛。A84、そしてA85を北上し、かつてはキリン・ジャンクションという鉄道の分岐点だったところから、ちょっと寄り道。本道を外れて右のA827に入り、東のキリンへ向かう。少なくとも105年前にはこのあたりを鉄道が走っていたというだが、廃線になって久しいようだ。

フォールズ・オブ・ドッハルト

ドッハルト川を橋で渡るとキリンの町だが、この橋の下というかすぐ上流部分の川全体が、ちょっとした段差になって流れており、フォールズ・オブ・ドッハルトという名所になっている。滝の複数形だが、滝と言うよりは激流という感じ。辻村は、この近くのロッヘイ川の滝について「スコットランドで瀑見にゆくのは第一間違のもとだろうが、ここでも完全に失望した、これは瀑布ではない、川の中に一間ばかりの段があって、そこが堰かれた渓流に過ぎない」と書いている。この滝も、そういった類いの滝だが、これはこれでいいのではないかと思った。今回の旅ではその後も、2つばかり滝を見たが、なかなか立派なものだったので、滝に関する辻村の意見には完全には同意しかねる。
キリンの市街を抜けると、今度はロッヘイ川を渡るのだが、その手前左側、橋の近くに白い漆喰壁の2階建ての建物がある。ブリッジ・オブ・ロッヘイ・ホテルである。これが、辻村が1914年6月22日から24日まで泊まったホテルと同じ名前だということには後から気づいた。「橋のたもとにあるホテルの入口には蔓薔薇が咲いて、草屋根の低いのもまるで百姓家、それに部屋へ案内してくれた婆さんも、田舎びてはいるが上品な顔をしている」と辻村は書いている。つるバラが確認できなかったのはともかく、低い草屋根でもなく「百姓家」という感じではなかったので、建て替えられているのだろう。

ブリッジ・オブ・ロッヘイ・ホテル

ロッヘイ川にかかる橋を渡り、テイ湖(ロッホ・テイ)の北岸に沿って東へ走る。ここまで来てみたのは、この湖の北岸に聳える山、ベン・ローシュ Ben Lawers(1214㍍)が、Munroだというだけでなく、スコットランドで最も山スキー向きの山のひとつと言われていると知り、ちょっと見てみたかったからだ。しかし、道路の左側になだらかな稜線が続いているのは見えるが、ベン・ローシュの山頂はその奥にあって下からは見えないようだ。稜線上には雪があるが、湖岸には全くなく、まだまだ山スキーができそうには見えない。

ベン・ローシュのなだらかな斜面

ホテル=パブがあるローシュの村まで行こうかと、まだしばらく東へ車を走らせるが、風景に変化がなく、同行者から「どこまで行くの?」と不満が漏れ出す。
このロッホ・テイを船で渡った辻村は「「ハイランドの尤も美しき湖」とベデガーの云うのは私には飲み込み兼ねる。ベン・ロワースのなだらかな斜面は美しいが、長さ十五哩と云う大きな湖だけに、少くも船の甲板からまとまった感じは得られない」と書き、「ロッホ・テイは兎に角有名な湖だから」としながらも、「そこから先の景色は平凡だから」と書いている。たしかに平凡だ。100年以上経っても風景が変わらないことを喜ぶべきか?エントロピー増大の法則から言って、美しい風景が破壊されて平凡になることはあっても、その逆はほとんどないのだから仕方がない。引き返すことにする。
なお、辻村が「ベン・ロワース」と書いているのはベン・ローシュのこと。Ben Lawersを素直に読むと、辻村のような読みになるが、ベン・ローシュという発音が近いようだ。辻村自身も書いているようにゲール語地名はなかなか難しい。発音はドイツ語的だ。また「ベデガー」というのは、有名なドイツの旅行ガイドブックのこと。

■荒れ地と雪山の景観

旧キリン・ジャンクションまで戻り、グレン・ドッハルト沿いのA85を西へ。クリアンラリッヒからはA82に入って北西のフォート・ウィリアムを目指す。辻村はこの区間を逆方向に鉄道でたどっているが、この鉄道路線は今も存在する。
トゥッラ湖(ロッホ・トゥッラ)を過ぎると、道は登りになり、展望台に着く。他にも数台の車が駐まっていて眺めを楽しんでいる。木がほとんどないので、下にトゥッラ湖が広がり、その左にビーン・アン・ドビッヒ Beinn an Dothaidh(1004㍍)とビーン・アハワデルBeinn Achaladair(1038㍍=札幌の百松沢山と同じ標高!)の大きな山体が、そして右にはブラック・マウントと呼ばれる山群のストップ・ア・ハリャ・オーエル Stob a Choire Odhair(945㍍)がよく見える。ただ、展望台はそれほど高くないので、湖面はちょっとしか見えない。これら3つのピークはどれもMunroで、中腹から上は雪をかぶっているが、どれも山頂は雲に覆われて見えない。

ビーン・アハワデル(左)とビーン・アン・ドビッヒ(中央)とトゥッラ湖(右)

この展望台には、煙突のような形のきっちり固められたケルンがあり、プレートの文字を読むと、遭難者慰霊碑らしい。と言っても、特定の遭難、特定の誰かにちなんだものではなく、スコットランドの山で命を落とした多くの人々に捧げられたものだと書かれている。同時にサー・ヒュー・マンローにも捧げられており、ケルンを構成する795個の石は、各地のMunroの山から集められ、テッペンの石はマンロー邸の遺構から取ってきたものなのだという。石を集めて2000年5月にこのケルンを建てたのは、W.G.Parkという人物らしいが、何者なのだろう?韓国系?独りで建てたのだろうか?なぜ、この場所なのかも不明。

展望台からさらにA82を登っていくと、道の両側に沼が点在するラノッホ・ムーアという湿地・荒地・原野に出る。進行方向左側にブラック・マウントの山々がよく見渡せるので、また車を駐め、右の高台に上がって写真を撮る。左からストップ・ア・ハリャ・オーエ、ストップ・ゴーエル Stob Ghabhar(1090㍍)、クラッハ・リアート Clach Leathad(1099㍍)、ミャール・ア・ブリッヒ Meall a’ Bhuiridh(1108㍍)と続く白い山並みが西側に屏風のように広がる。クラッハ・リアート以外はMunroだ。まだ14時半だが、既に陽はかなり低く、写真を撮っても西向きなので逆光気味。このブラック・マウントの稜線もまた、スキー縦走に格好のルートとされているようなので、いつかトレースしてみたいものだ。ここにも、車を駐めて写真を撮りに来る人がいる。山とは反対の沼地で写真を撮っている人もいた。

ラノッホ・ムーアから見たブラック・マウントの山々

■グレンコーの絶景とパブ

さて、ここから、先ほど右端に見えていたミャール・ア・ブリッヒの裾野を巻くようにA82を進んでいくと、正面奥にグレンコーの谷の入口の山、ブーヒレ・エティヴ・モール Buachaille Etive Morが見えてくる。そして、左手のミャール・ア・ブリッヒの北斜面には、グレンコー・マウンテン・リゾートのスキー場があるのだが、雪はあまりなく、まだ営業していないようだ。明日行く予定のネヴィスレンジはどうなのか?不安が高まる。「グレンコー」はゲール語で「嘆きの谷」を意味し、1692年にマクドナルド氏族の虐殺という、スコットランドとイングランドの歴史に残る大事件が起きた谷だが、荒々しくも美しい景観でハイランド屈指の景勝地となっている。谷の北側にはウーナッフ・イーガッフ Aonach Eagachの稜線が、そして南側にはブーヒレ・エティヴ・モールやビディヤン・ナム・ビヤン Bidean nam Bian(1150㍍)などの切り立った岩山が、谷底から7〜800㍍の標高差で一気に聳えている。
中でも目立つのが、グレンコーを守る門衛のように立つブーヒレ・エティヴ・モールで、岩をまとったピラミダルな山容が、スコットランドの山のアイコン的な存在となっている。クライミングの対象ともなっている山だが、最近ではガリーをスキーで滑る強者もいるらしい。この山は独立峰ではなく奥にピークが続く一つながりの稜線で、三角形に見えるのは、その中の最高峰ストップ・ジェレック Stob Dearg(1021㍍)だ。

ブーヒレ・エティヴ・モールのストップ・ジェレック
ブーヒレ・エティヴ・モールのストップ・ジェレック

この「門衛の山」を通り過ぎると車は、こちらも険しい北側のウーナッフ・イーガッフとの間のグレンコーの谷に吸い込まれていく。以前に来たときはこのあたりも歩いたのだが、天気が悪く山々はガスに包まれ、ずっと雨が降っていて、カメラが結露してしまった。今日は晴れているが、すでに太陽は稜線の向こうに沈んでいて暗い。写真を撮っても完全に逆光だ。左からはスリー・シスターズ(三姉妹)と呼ばれる3つのピークが迫ってくる。 その奥にはビディヤン・ナム・ビヤンが控えているのだが、ここからは見えない。

グレンコーのスリーシスターズ(三姉妹)
グレンコーの三分の二姉妹

グレンコーの谷を抜けるあたりで、寄ってみたいところがあるのでA82を右に外れる。すぐ近く、ウーナッフ・イーガッフの稜線の西端の山スコール・ナム・フィアニッヒ Sgorr nam Fiannaidh(967㍍)の麓にあるClachaig Innというパブだ。14年前にも訪れてキャスクエールを飲んでいるのだが、その時はこのパブが、スコットランドの登山史を語る上で欠かせない存在だとは知らなかった。エベレスト南西壁初登攀者のダグ・スコットをはじめ数々の有名登山家がここを訪れているという。1906年には、ここでスコットランド登山協議会の第7回の集会が開かれ、店内に展示されているそのときの写真には、ヒュー・マンローや、A・F・ママリーの盟友であったノーマン・コリー、ウィリアム・ネイスミスらが写っているという。前回は全然気づかなかったが、それは是非見てみたい。

Clachaig Inn
Clachaig Inn
ドアの把手がマッキネス・ペック

と思っていたのだが……残念なことに、この日は従業員のクリスマスパーティのために店はお休みだった……。ガックリ。諦めきれずに、あたりをうろうろしていると、パブの入口のドアの取っ手にピッケルが使われていることに気づいた。古いがメタルシャフトだ。ピックはかなり急角度である。ん?これはマッキネス・ペックではないか!? クリス・ボニントンが率いたエベレスト南西壁隊の副隊長も務めたハミッシュ・マッキネスが1970年代に開発した、ピックが急角度に下を向いた「テラーダクティル」は、現代のアイスクライミング用アックスの先駆けとなったエポックメイキングなピッケルである。後から調べたところによると、このあたりを拠点にしていたマッキネスは、山岳救助の世界的な先駆者でレスキュー用ストレッチャーを考案したことでも知られており、彼が1962年にグレンコー山岳救助隊を結成したのが、まさにこのパブだったのだそうだ。店内には、彼が開発したアックスのいくつかのバージョンが展示されていたらしいので、それも見てみたかった。後ろ髪を引かれる思いで、ここを後にする。

もう陽も落ちたので、グレンコーの町にあるという虐殺事件の記念碑には寄らず、ロッホからロッホへと続くA82の道を急ぐ。14年前、フェリー乗り場近くのパブへ飲みに行き、帰りに終バスを逃して、夜にこのあたりを雨の中、15㌔ほど歩いてグレンコーのホステルまで帰ったのを思い出す。

ハリー・ポッターの映画の鉄道橋

ほどなく今日の目的地フォート・ウィリアムに着いたが、ここを通り過ぎてグレン・フィナンに向かう。Tの希望により「ハリー・ポッター」の映画に登場する鉄道橋を見物しようというのだ。ポッター・ファンでもないが、名所なので行ったみたいらしい。もうすっかり日も暮れたので時間との勝負。今はサントリー傘下となっているベンネヴィス蒸留所の前で左に折れてA830に入り、30㌔ほど走ってたどり着く。既に真っ暗。橋の直下までは2〜30分歩かなければならないのであきらめて、近くの展望台まで登ると、何とか雪山を背景に遠く橋が望めた。反対側のフィヨルドの風景も美しい。

■フォート・ウィリアムで山スキーをレンタル

本日の宿泊地フォート・ウィリアムが「アウトドアの首都」と呼ばれる理由のひとつは、町から見えるところに英国最高峰ベン・ネヴィスが聳え、その登山基地となっていることだが、この山から東へ谷を2つ隔てた北向きの尾根には、ネヴィスレンジという、スコットランドに4つしかないスキー場の1つもある。
明日は、このネヴィスレンジに十分に雪があるようなら、山スキー(シール登高)でリフトの終点まで上がり、さらに稜線伝いにウーナッフ・モール Aonach Mor(1221㍍)、ウーナッフ・ベーク Aonach Beag(1234㍍)という2つのMunroに登頂する計画。ここを選んだのは、北向きで比較的標高が高くスキーが使えそうなこと、2つのMunrosに登れることの他に、天気が好ければ、山頂稜線からベン・ネヴィスの北壁がよく見えるだろうという思惑もある。ベン・ネヴィスの北壁はミックスクライミングのメッカで、冬の天候の厳しさで知られている。
そんなわけで、フォート・ウィリアムに戻ると、ホテルにチェックインする前に山道具屋=アウトドアショップに向かう。明日の山行に向けて、山スキーをレンタル(英国ではハイヤー)しようというのだ。「アウトドアの首都」だけに山道具屋はいくつかあるが、インターネットで目星を付けていたのが、Ellis Brighamという全国チェーン(日本の石井スポーツのようなもの)のフォート・ウィリアム店。ラウンドアバウトを通り過ぎたり、何度か行ったり来たりしてたどり着く。かなり大きな建物。以前もこの建物の前を通った記憶があるが、そのときはスポーツ施設だった気がする。
店に入り、店長とおぼしき割と年配の人物に来意を告げると、奥からスキー担当の若めの店員が出てきたので、明日の予定ルートの雪とスキーレンタルについて話を聞く。雪は一応あるからスキーで行けると思うし、ウーナッフ・モールまでは問題ない。ウーナッフ・ベークまでは行ったことがないからわからないが、一箇所、稜線が細いところがあるので要注意とのことだった。ただ、雪が少ない箇所もあるので、スキーの裏に傷を付けたら弁償してもらうよ、と本気か冗談かわからない感じで言われたので、ちょっと迷ったが、せっかくだからレンタルすることにし、フォルクルのスキーとストック、シール、靴をセットで借りる。2人で1万5千円ほど。
スキーと靴を調整してもらいながら店員と話をする。今シーズン初めてのスキーか訊かれ、日本で1回だけやったと答えると、日本は雪が多いんだろうねと言うので、いや今年は少ないんだと返すと、「えー!?ジャパウと呼ばれてるのに?」と驚いた様子。外交辞令かも知れないが、日本でスキーをするのが夢だという。日本のパウダースノーの評判の国際的な浸透ぶりを改めて実感する。
スコットランドでもここ数年、バックカントリースキーをする人が激増しているようで、パウダーはないが、スティープなラインを狙う人もいるらしい。しかし、雪は減っているようだ。帰ろうとすると、ちょうど店にやって来ていたネヴィスレンジのスキーパトロールの隊長に紹介される。いい雪が降って、明日はいいコンディションが期待されるとのこと。天候もまあまあいいようだ。期待が高まるが、天候の変わりやすいスコットランドだけに油断は禁物。
スキー一式を車に積み、TとJを彼らの宿に送り届けた後、やっと今日のホテルに向かったが、慣れないミニバンのために、狭くて傾いた駐車場に駐めるのに一苦労し、かなりの時間を要した。

■辻村伊助と同じホテルに泊まる

今晩泊まるアレクサンドラ・ホテルは、町の目抜き通りに隣接した公園に面しており、フォート・ウィリアム一番のホテルと言っていいだろう。町のランドマーク的存在でもあり、前に来たときもよく目についた。建て増しはされているが、石造りの古い建物がそのまま残っている。値段は一人一泊4〜5,000円ほど。
辻村は1914年6月19日から22日まで、このホテルに3泊している。「アレクザンドラ・ホテルは小さな感じのいい家である」としか書いていないが、この言葉から考えると、増築前の古い建物も、もしかしたら辻村が泊まったものではなく、それ以後に建て替えられているのかもしれない。

アレクサンドラ・ホテル

ホテルの前には、ヨーロッパの多くの町と同様、第一次大戦と第二次大戦の戦没者慰霊碑があった。上に兵士の像が載ったこの碑には、町から出征して戦死した兵士の名前が刻まれており、花輪がいくつも捧げられていたが、この古びた碑も、辻村が来たときにはまだなかったのだと思うと、何だか不思議な気がする。何しろ辻村がここに来たのは、第一次大戦が勃発する前の月のこと。この大戦のおかげで辻村はスコットランド再訪を諦め、二度と訪れることはなかったのだから。
ホテルの前には、ネヴィス・レンジの古いゴンドラ・リフトの搬器が看板代わりに置かれているネヴィス・スポーツという山道具屋があり、以前来たときには訪れたのだが、今日はもう閉店してしまっている。隣接したカフェ兼パブには、古い山道具やドゥーガル・ハストンといった英国の有名登山家のサイン入り写真が飾ってあったのを覚えている。
フォート・ウィリアムの街には、他に見るべきものはあまりない。フォート・ウィリアム・マウンテン・フェスティバルのポスターやチラシをあちこちで見かけたが、これは毎年2月下旬の開催のようだ。いろんなイベントが開かれるようなので、その時期に一度来てみたいものだ。

パブ「グロッグ & グルーエル」

チェックイン後、Tたちと合流して、食事も兼ねてパブへ行く。1軒目は、14年前にも行ったグロッグ &グルーエル。Good Beer Guideにも載っている、昔ながらの伝統的パブだが、キャスクエールは、ケールンゴルムなどハイランドのものばかりで、バラエティには乏しい。地元客が多く、年齢層は割と高くて、あまり活気が感じられない。
2軒目はブラック・アイルという、インヴァネス近くのクラフトブルワリーの直営店に行った。インヴァネスに次ぐ2号店で、クラフトビール・ブームに乗ってオープンしてまだ半年ほどのようだ。20ほどのタップが並び、全部自分のブルワリーのビールだが、キャスクエールは2つのみ。石造りの教会のような建物だが、サインや内装は今風のオシャレなつくり。大ぶりの木のテーブルについているのは、予想されるとおり、若めの客層だった。
さて、いよいよ明日は山登り。期待と不安が半ばするが、果たしてどうなることか。