内山書店の思い出

 中国語の勉強を始めたとすぐに『内山書店』を知りました。当時の内山書店は一ツ橋にあり
水道橋から下って来て救世軍の手前を右に入ってすぐ左にありました。薄暗くどっしり
としたいかにも漢籍を売る本屋というかんじでした。
 今のすずらん通りに移ったのは、1968年だったと思います。その時、私は日中学院の
2年生で、その内山書店の新築されたビルの2、3階を日中学院が借りたのです。
それからは、毎日内山書店の書棚を見続けました。その頃はいつもレジには内山松藻
(まつも)さんがいました。当時ちょうど文化大革命の頃で中国からの出版物は赤い表紙の
本で埋め尽くされ、文学書や歴史書などの新入荷はありませんでした。それでも、欲しい
本を松藻さんに言うと奥から出してきてくれるのです。『巴金文集 全16巻』もその時に
買いました。なかには、柔石の当時の本も有ったりして私を喜ばせたりしてくれました。
今、『ドキュメント昭和 世界への登場 第2巻 上海共同租界(角川書店刊)』の本を目に
し、次のように松藻さんのことが記述されています。
「深い友情で結ばれた内山と魯迅であるが、二人はいったい、どんな会話を交わしていた
のだろう。二人の姿を、一時期、毎日のようにみつめていた女性がいる。内山夫妻の養女
となり、完造の弟嘉吉の妻となった内山松藻さんである。
 松藻さんは大正十年にはじめて上海に行き、途中四年間、女学校に通うために日本に帰
ったが、ふただび上海へもどり、昭和6年まで内山夫妻とともに暮らした人である。」
 魯迅と内山完造の話しをすぐそば聞いていた人、それが松藻さんだったとは当時知る由も
ありませんでした。誠に残念なことでした。


上の写真、『ドキュメント昭和 世界への登場 第2巻 上海共同租界(角川書店刊)』より。