花島徳夫 の あしあと  


恵山618m 頂上 2015.10.12

函館方面
椴法華方面 

2010年10月11日 駒ケ岳(函館)
北海道鹿部町 駒ケ岳登山情報アドレス

http://www.town.shikabe.lg.jp/bousai/index4.html

2010年10月11日 駒ケ岳
現在登山許可は馬の背900mまで。
後方ピーク剣ケ峯1131mは不許可

海向山 570m 2015.10.12 

2010年9月26日 美瑛岳頂上 2052m

2010年9月26日 美瑛岳頂上 2052m
紅葉登山のつもりが頂上は真冬
 アマチュア無線局 2003年8月開局JL8GQW
      
A1-Club会員 #514


日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(Hat-J)会員
日本山岳会会員
日本山書の会会員      

2000.9.7長白山(白頭山)。天池の向
う側の山は北朝鮮領域・将軍峰(かつて
大正峰と呼ぶ)。


 
長白山・天池
 
上の写真、大連虎灘楽園・軍艦
Blue poppy

    

  『隅田川左岸(タイトル)』浅草側から見た向島。
  
挿入版画・半藤一利 大倉雄ニ『逆光家族』父・大倉喜八郎より。

    この半藤一利氏の版画は少年時代を思い出せる。左から「隅田川造船」、ここでは
   「力道山」が全盛の頃クルーザーを建造し、船尾には《力》の文字が入れられてあった。
隣は、大倉財閥・創始者 大倉喜八郎 が造った『大倉別邸』。
現在その一部が千葉県船橋市・ららぽーとに移築されいてる。上記の『逆光家族』に詳しい。
   更に「東大艇庫」「一橋大艇庫」と隅田川レガッタの基地。「少年球場」は広くなく昔、王選手
   もここで野球をしたかも。「言問団子」三色の団子。「一銭蒸汽のりば」。「常明灯」、「長命寺
   の桜もち」、今でも桜の葉は大島から運ばれているとか。「弘福寺」古刹。「三囲神社」、「小梅
   小学校」とある。
   生まれたのは「隅田川造船」の裏にあたるところで、寺島町三丁目二十一番地。
   この版画に描かれているあたりは、子供のころの遊び場だった。

『特別篇』

2004年(平成16)5月 北海道家庭学校

『足跡篇』

 2015年29-30日 天人峡温泉から東川町
 2015年10月17-18日  函館 恵山618m登山
2010年 7月1-14日

中国・上海、成都、峨眉山、楽山、九寨溝を40年前の日中学院時代の仲間と旅をする
7月4日  成都から峨眉山へ
7月5日 峨眉山 金頂
7月6日 楽山大仏
7月8日 九寨溝まで
7月9日 九寨溝 神秘の湖 <1>
7月9日 九寨溝 神秘の湖 <2>
7月10日 九寨溝 神秘の湖 <3>
7月11日 黄龍から紅軍長征紀念館まで
7月13日 上海・旧内山書店、魯迅紀念館
7月13日 上海 『万商 花鳥市場』 &『東台路古玩市場』
2000年(平成12)9月6〜20日 中国出差旅游。瀋陽、延吉、長白山(白頭山)、大連、旅順、上海、杭州、北京。15日間。
2000年(平成12)6月 現在・手稲区自宅に新設店舗移転
1995年(平成7)8月 日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(Hat-J)長白山登山に同行。北京、延吉、天池、延吉、北京。
1994年(平成6)1月29日 古書店・花島書店を札幌市北区麻生に創業・開店
1993年(平成5)7月 中国旅行。上海、蘇州、北京。10日間。
1989年(平成1)3月 台湾からの輸入の仕事で、十数回行く。
台北、花蓮、高雄、台南を中心に。
1989年 (平成1)1月 中国旅行。香港、広州、北京、蘭州、敦煌、嘉峪関、西安、広州、香港。20日間。       
1983年(昭和58)11〜12月 中国旅行をする。ビザの都合で、香港、広州、桂林、昆明、石林、成都、西安、西安・青龍寺(写真有)、洛陽、  少林寺(写真有)、北京、上海、杭州、紹興、広州、香港の一ヶ月の旅。
1973年(昭和48)3月 和光大学卒業
1969年(昭和44)4月 和光大学人文学部文学科中国文学専修入学  小野忍先生-紅楼夢、丸山昇先生-魯迅、菊田正信先生-中国語学、高田淳先生-中国近代思想、佐藤保先生-唐詩、鈴木修次先生-漢詩、祖父江昭二先生-プロレタリア文学   『和光大学の思い出』
同窓会『和光同塵会』が作られた
1967年(昭和42)4月 日中学院本科4期入学  倉石武四郎学院長、高橋均先生、李秀清先生、横山敏子先生、丸山昇先生、杉本達夫先生、牧田英二先生、折敷瀬興先生、庄村先生 『内山書店の思い出』
1966年4月 電電公社東京気象無線電報局入社
この頃中学のクラス会が『みの屋』(水戸街道筋)で
行われた。今でもこの店の記憶がしっかりある。
野坂昭如『新宿海溝』から。「滝田ゆうが、雑誌「ガロ」に発表した「寺島町綺譚」を・・・寺島町綺譚の舞台は、主に戦時中の玉の井、寺島町の一丁目から八丁目まですべて空襲のために焼き払われ・・・」
「角地の店で、みの屋という。街道に面して入口があり、その右で焼鳥をやく、入ると土間、外食券食堂風テーブルがならんでいて、奥は広い座敷、細長いテーブルが縦に四列、しかるべくガスコンロが置かれ、座敷へ上る客は、自分の下足を備えつけの箱に入れて、棚に置く。・・・休日のささやかな贅沢を楽しむ場所なのだろう。・・・給仕女は大年増ぞろい・・・一人だけ若い美人がいて、みの屋の次女。(135-138頁)」

種村季弘『食物漫遊記』から。「幻の料理」171-172頁で、みの屋が紹介されている。「東武線の玉の井で降りてごみごみした横町を抜けると、水戸街道が濶然と開けて、その街道筋に古い店構えでみの屋がいい感じに立っていた。」
今でも、あるのだろうか。もし、あったならば是非でも行ってみたい店だ。

1966年(昭和41)3月  国立仙台電波高校卒業
1963年(昭和38)4月

「仙台のラーメンとホルモン焼き」(雑誌・栄養と料理76年12月)
このエッセイに仙台電波の思いでが語られている。 芥川賞作家・丸山健二
国立仙台電波高校本科16期入学・写真リンク有
仙台電波に入学してまもなく《高体連》の応援練習が始まった。一年生は必修。
その応援団に顧問のような人が居た。後に芥川賞を取った、丸山健二先輩である。その当時からオーラが感じられた。今では懐かしい話しです。
1963年(昭和38)3月  東京都墨田区立向島中学校卒業
 墨田区立向島中学校は、平成25年3月31日をもって閉校。平成25年4月1日に鐘淵中学と統合され、墨田区立桜堤(さくらつつみ)中学校になる。
1954年(昭和29)4月

東京都墨田区立第二寺島小学校入学

 
以前は、寺島町と云われていた。そこに第一寺島小学校通称一寺℃рフ母校ニ寺≠サして、三寺≠ワであり、今でも存在している。ニ寺≠ヘ、東武電車の旧玉の井駅の西に位置し、《滝田ゆう》の『寺島町奇譚』では母校の校庭が画かれている。くすの木≠ニけや木≠ヘ母校のシンボルだった。
『昭和夢草紙』表紙カバー


この歌詞は母校の校歌である。大正オ-13卯月(うずき四月)の20日清く流れる隅田(隅田川の東に位置する)の東イ


われらをはぐくむ
おしえのには…″Z庭に『おしえの庭』が在り、そこにこの歌詞の刻まれた碑が建っている。滝田ゆうの頭にもこの歌詞が残っていた。

1954年(昭和29)3月

墨田幼稚園卒園

丁亥

東京都墨田区寺島町(現在堤通)に生まれる七人兄弟の末っ子