『和光大学の思い出』


2001年11月・小田急電車内より写す  

 なぜ和光大学に入ったのか、実に簡単なことでした。その前に日中学院
(倉石武四郎学院長)というところで中国語の勉強をしていました。
1967
年、折しも中国では文化大革命の嵐が吹荒れ始めた時です。日本でもゲバ
棒持っての騒動があちこちでありました。日中学院もそのあおりを受け飯
田橋に在った留学生会館(現在日中友好会館となっている)が閉鎖されそ
の後転々と教室を移動しての授業でした。後に新築になった内山書店ビル
内に入居できることになりました。そこに丸山昇先生が教えに来られてい
ました。倉石先生の教えを受けた先生方なのです。丸山先生が魯迅の研究
をされていたことは以前から知っていました。丸山先生の授業は大変厳し
く岩波の『中国語辞典』(倉石武四郎著)をよく調べておかないとおこら
れました。ここでの中国語の勉強の二年間は後の今になっても役立ってい
ます。

 そんな時勤めていた東京気象無線電報局が廃局になることになり、丸山
先生に相談したら国立の高校を出ているのでもし和光大学に来て更に勉強
したいのなら
推薦入学で可能であると教えていただきました。そんな訳で
和光に入ったのです。一度社会人になった以上は家に頼らず、自分で稼い
だお金で入学金、授業料を払いました。最も合理化による退職でしたので、
当時としては破格の退職金でした。そのころの和光でもリンチ事件が有っ
たりして、騒がしかったのですが私は勉強とアルバイト(日本短波放送の
天気図作成補助と家庭教師二人)でいっぱいでした。

その頃和光の中国文学関係の先生方は、小野忍教授(紅楼夢、陶淵明等教
わる)、丸山昇助教授(魯迅)、菊田正信講師(中国語学・現在金沢大学)
の三人が専任でした。
他大学からは講師で高田淳先生(中国近代思想)、佐藤保先生(唐詩)、鈴
木修次先生(漢詩)等の素晴らしい先生方が来られていました。高田先生に
は東京女子大学でしたが、学習院大学の章炳麟のゼミに出させてもらったり
しました。
他に思い出す授業は、梅根学長の「世界教育史」、守屋典郎「日本資本主義
発達史」、田中実「科学史」そして、祖父江昭二先生の「プロレタリア文学」
などがあります。その祖父江先生に当時季節アルバイト先のスホーツ問屋で
先生のスキーウエアーの都合をつけるお手伝いをしたことがありました。
逆に祖父江先生は劇団民芸の文芸部長をしていた関係で民芸の公演には便宜
を図ってもらい、宇野重吉、滝沢修等を見ることができました。ついでに、
劇に関して言うと日中学院の同級生にH女史という前進座の座員市川
祥之助さんの奥さんがいましたので前進座の舞台中村翫衛門、梅之助、国太郎
もよく見ました。を特に、小野忍、祖父江昭二、丸山昇諸先生が三人揃って
講師を務めた「1930年代の日本文学におれる中国像」は圧巻でした。
荒木繁先生にはプロゼミでお世話になりました。杉山康彦先生には直接教わ
りませんでしたが、図書館の館長を勤められていました。あともう一人石原
先生の記憶があります。専門が違うためやはり教わりませんでした。

入学して翌年1970年3月に、ある裁判の1審判決がありました。その被告と
して和光に二人の先生がいました。事件は1952年に起きた「メーデー事件」
で、被告の一人は
荒木繁先生そしてもう一人が丸山昇先生でした。この事件は
皇居前広場でデモ行進に対し警察官の発砲により死者まで出した内容は知って
いましたが、まさか和光の先生に被告がいる何て思いもよらぬことで、再度こ
の事件について勉強をするとデッチ上げ事件であることが私なりに分り、他の
学生達と後援会を組織して何とか無罪を勝ち取るべく努力をしました。その時、
病気養生中である近藤忠義先生のお宅までカンパと抗議集会のメッセージを依
頼に行ったことがあります。これまた素晴らしい名文でした。判決の日がせま
り、傍聴券を確保するために前日から泊込み、その彼等に炊き出しのため運搬
に丸山先生の車を使い私が運転して大きな鍋の移動にあたりました。
3月ですから、寒くて毛糸の帽子をかぶりやった記憶があります。その当時ま
ことは昨年丸山先生から戴いた『倉石武四郎先生のこと』(作家兄・佐野洋氏
が倉石先生から借受けた蔵書を監獄まで持って行った話等)と『回想-中国・
魯迅五十年』に今まで余り語られなかったことが述べられています。これは
先生にお許しを受けた後に掲載させていただこうと思っています。
 判決はお二人とも無罪でした。18年間被告というレッテルをつけられた生活と
本当のお別れでした。それにしても今思うと、被告人と知り採用した梅根学長
等の裁量に感心させられます。その学長とは卒業のとき、学長室にお酒がある
から飲みたい学生はどうぞと言われ、酒好きな私はおじゃまして一緒に入れて
いただいたことを覚えています。丸山先生は後に東京大学に戻られ定年を迎え、
桜美林大学そして今年2002年3月で第二定年を迎え教職を離れました。
 私は単位を三年間でほぼ取り終え残りは卒論だけにして、四年の時には季節
アルバイトをしていたスホーツ問屋に就職し結婚しました。その後、仕事の関
係で北海道の移り住むことになるわけです。