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4.月例集会「三木会」と地方集会および年次総会

4.月例集会「三木会」と地方集会および年次総会

創立当時の集会は「研究集会」と称し,第1回研究集会が創立の翌月,1962年7月12日に日本山岳会ルームで行われた。出席者15名,記念すべき第1回のテーマは川崎隆章の「山と人と書物」と「『山書研究』第2号以下について各人から意見を聞く」の二本立てであった。ここで発表したテーマは文章化して『山書月報』に掲載することを原則としていた。8月22日に行われた第二回研究集会の出席者は13名,メインテーマは小野敏之「遭難報告書と遺稿集」。以降のメインテーマは小林一裕「文献を通じて見た最近のヒマラヤ」(第三回),川崎隆章「奥利根水源探検の歴史と文献」(第四回),平田正昭「山書の会のあり方」(第五回),平田正昭「レスリー・ステフェンとヒマラヤ」(第六回),澤村幸藏「剱岳の歴史と文献」(第七回)などとなっている。何れも研究,評論といった内容で,発表者はかなりの準備を要したものと思われる。まさに川崎隆章が目指した山書研究を具現化したものというべきだろう。出席者も9名から16名とコンスタントに推移していた。
ところが第八回研究集会(1962年8月19日,日本山岳会ルーム)のテーマは「この一冊を語る」であったが,出席者は僅か3名に過ぎなかった。テーマも,これまでのアカデミック的な内容から誰でも気軽に話せるものに変わっていた。内容を伴った研究的な発表は誰にでも出来るものでなく,担当者は持ち回りの研究会を継続することの困難さを感じていたのかも知れない。第八回は流会となり,テーマは次回に持ち越された。そして1962年9月25日,日本山岳会ルームで行われた第九回研究集会の出席者は9名であった。この後,研究会の実施記録は残されていない。実体は自然消滅のようである。
第九回研究集会以降,一般会員を対象とした集会は設定されていなかったが,役員中心の集会が発足した。「三木会」がそれである。『山書月報』No.14(1964年3月10日)に「三木会 発足す」と題する次の記事が掲載されている。
「山書の会に役員と呼ばれる者が六名居るが、餘り集る機会もなくと角バラバラになり勝ちであった。これでは山書の会を大きく育てることはむづかしい。やはり会は仕事を中心にまとまって行かなければいけない。
こんな考え方から役員を中心としたさん三き木かい会が発足したのである。
会場 小野宅
日時 毎月第三木曜日午後六時より、九時迄の三時間
やること 会務(通信、月報編集などの会務全般)
出席者 原則として役員、但し役員以外でも会員は出席しても可
総会や集会の準備もすべて三木会を中心としてやって行くことになったから今後は活溌な動きが期待できよう」(O)
「三木会(第一回)報告」が同じ『山書月報』(No.14)に載っている。
「2月20日6時 小野宅
出席者 野口冬人、平田正昭、水野勉、寺島剛、佐々木誉実、小野敏之
テーマ 昭和三十九年度総会」
ここで総会提案事項が協議されたが,その一つに「特別会員候補の件」があった。提案内容は,「日本山書の会に特別功労のあった人および日本山岳界の功労者で山書の会の目的に賛同してくれる人を本会特別会員としたい。特別会員は役員会ですいせんし総会で同意を得なければならない」とし,「今回のすいせんは次の八氏」とある。「八氏」とは槇有恒・松方三郎・小林義正・坂部護郎・深田久弥・藤木九三・諏訪多 (ママ) 栄三・高須茂で,注記として「尚以上八氏の承諾はとってありません」とある。
昭和三十九年度総会は3月26日,日本山岳会ルームで行われた。11名の出席者だったが,役員(予定者)を除くと一般会員の出席は少なかった。この総会に議案として「特別会員の件」が提案され,協議された。結果は次の通りである。
「原案(月報十四号)は不適当との意見で次のように決定された。
槇 有恒・松方三郎・深田久彌・藤木九三・日高信六郎・今西錦司
尚、小林義正、諏訪多栄三氏には入会していただけるようすすめることとした」
この総会によって「特別会員」制度が発足したが,会則への記載はない。
一方,毎月行われることになった「三木会」は順調に回を重ねていき,3月19日に開催された「昭和四十年度総会」の前月までに13回に達していた。三木会の内容も役員中心から一般会員への集会へと変わっていった。その先触れが「新事務所および三木会の案内」(『山書月報』No.16)に記されている。「(前略)三木会と云うと、幹事だけの集りで会務のみ行うと考える方も居ると思いますが、今までの報告でお判りのように幹事以外の人も出席して、共に会務を行い、山岳書について話したりして楽しい会合となっています。どなたでも気楽に出席して下さい。(O)」
三木会が現在のような会員中心の例会として正式に位置づけられたのは,昭和四十年度の総会(昭和40年3月19日)で「規約改正」が提案され,承認されたことによる。
「四、集会
2 会員相互の親ぼく、研究発表、会運営を目的として、原則として月の第三木曜   日に集会(三木会)を開く。必要があれば別に研究集会を開くことができる」
初期の「研究集会」から「三木会」への移行は,設定された話題以外にさまざまな情報交換の場としても活用されてきた。「研究集会」と異なり,誰もが気楽に出席できることが長命の秘訣かもしれない。
序でに意外な事実を一つ。本会は共同研究は原則として行っていないが,「分科会」の設立が決定されたことがある。それは「1963年度年次総会報告」(『山書月報』No.8)に,「これ迄集会は月例集会だけで行って来たが、会員の興味が非常に広範囲に亘っており、より充実した話合の場をつくるために、斎藤氏の分科会構想をとり入れて、分科会活動により、より充実した山書の研究活動を展開することになった」と記されている。「分科会」は次の五つで,総会出席者(14名)は何れかの分科会に属することになった(複数の所属可)。
「登山史分科会」斎藤・小 野・平田・小林・寺島・ 近藤・上野(7名)
「登山者分科会」水野・平 田・勝山・山野・近藤・ 斎藤(6名)
「山岳信仰・民俗分科会」 平田・小出久(2名)
「評論・時評分科会」川崎 ・平田・小出・上野(4名)
「ヒマラヤ分科会」水野・小 林・勝山・小出悟・近藤(5名)
『山書月報』に記録されている次の「分科会」関係の記事は,新たに「分科会」に属する会員を加えた「名簿」が11号に掲載されている。これを見ると順調に所属会員を増やしているので,「研究集会」と併行して活潑な活動が想定されたのだが,不思議なことに「分科会」関係の記事は本号を最後に,砂上の楼閣の如く忽然と消えてしまった。一体,何があったのだろう,今となっては詮索する気もないが,一つのエピソードとして記しておくが,推進役は斎藤一男だっように思う。『山書月報』No.5(昭和37年12月10日)に「一つの提案」と題する文章を載せ,分科会の設立を提案しているからだ。斎藤が設立,推進しようとした分科会は敢えなく潰えてしまったが,彼の執念は潰えることなく,ほぼ40年後に遂に実現した。それは,斎藤が設立にかかわった日本山岳文化学会(2003年3月設立)の分科会である。ここの分科会は本会と異なり,現在も充分に機能している。
さて三木会が定着し,地方会員の増加に伴い東京以外でも例会が開かれるようになった。次に概略を記しておこう。
1972年頃から坂戸勝巳,阿部恒夫などで大阪三木会(のちに関西例会として現在も続いている)が開かれるようになった。名古屋の安藤忠夫を中心として中部地区集会もときどき開催された。この頃が山書の会の活動が最も盛んであった時期で,会員も200名を越していた。さらに北海道でも集会が催されるようになった。札幌近郊の石狩金沢に居住する会員,斎藤俊夫が北海道山岳文献の蒐集に傾注し,北海道でも有数な山岳関係文献の蔵書家となった。蔵書は「金沢文庫」と称していたが,名称の由来は居住地の「石狩金沢」から採られている。集会は「金沢文庫」で行われていたが,斎藤の死去にともない「金沢文庫」は閉鎖され,蔵書の一部は北海道斜里町にある「北のアルプ美術館」に引き継がれている。集会は会場を札幌の居酒屋などに移して,現在も不定期だが開催されている。そのほか,短期間ではあったが四国でも集会が行われた。東北では不定期ながら現在も開催されている。

   2017年度全国総会出席者記念写真(北海道東川町)

本会は年次総会を全国各地で催している。会員が北海道から九州まで全国各地に散在しているので,懇親を兼ねた総会となっている。これまでの開催地は北海道,東北,信州,北陸,東海,関西などだが,会員が限られている九州だけは縁がない。今年度(2017年度)の総会は北海道の大雪山麓に位置する東山町で催された。東山町は町興しとして文化事業を熱心に推進しているところで, 2016年10月にオープンした「大雪山ライブラリー」には,大雪山関連の文献資料を収蔵,公開されている。この文献資料の蒐集,整理に貢献したのが数名の本会員であった。そんな機縁が東山町で全国総会を催す動機だったが,東山町での総会は2015年にも開催しているので2度目であった。目的の一つは「大雪山ライブラリー」の閲覧だったが,出席者26名,町長以下,町役場の全面的なバックアップもあり,盛会であった。