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7-1.本会出版物の概要

7-1.本会出版物の概要

本会の出版物は,毎月発行している会報『山書月報』,不定期発行の研究発表誌『山書研究』の他に,『山書研究』の特製限定本,独自に発行した単行本がある。
『山書月報』は本会創立の翌月,1962年7月7日に創刊されたが,A5判,紙数わずか4ページというささやかなものだった。紙数は号を追うごとに増えていき,3号(9月号)から6ページ, 5号(12月号)8ページ,9号(1963年6月号)から16ページとなった。その後も増ページは続き通常号は20~30ページで落ち着いたが,現在は28~30ページが標準となっている。ただし,年2回の地域特集号は48ページと大幅な増ページで発行している。最近は製作費軽減と品質向上のために,原稿をPDF(Portable Document Format)に変換,それをそのまま印刷してもらっている。最近の表紙は毎号2冊の新刊書の書影を掲げるようにしている。デジタルカメラが普及する前は,あらかじめ10か月分ほどの表紙を印刷して使用していたので,この間の書影は同じものであった。何れもモノクロームであるが,1回だけカラー印刷にしたことがあった。450号前後がそれだが,当時のカラー印刷費用はモノクロームの3~4倍もするので継続することができなかった。
創刊号から13号(1964年2月)までは「月報」と称しても,必ずしも毎月発行された訳でなく隔月の発行など,不定期的な発行であった。名実共に「月報」になったのは小野体制になった14号(1964年3月)からである。14号以降は1回の合併号もなく現在に至り,この11月には658号まで号数を重ねている。
内容は研究,小論文,随想,蒐書,新刊紹介,会員消息,会務など幅広い記事を掲載している。
本会の出版物の中で『山書研究』は中心的な役割を果たしている。創刊号から2007年7月に発行された50号まで,ほぼ50年間にわたり年に1冊ないし2冊の不定期刊として発行されてきた。しかし遺憾なことは,50号以降の発行が停止状態にあることだ。その主因は会員数の減少に伴う収入の低下にある。このところの会費収入は『山書月報』製作・発送費の収支とほぼ同額になっているので,他の事業に回す余力はない。会を存続させるためには,大幅な赤字は許されることでない。その打開策の一つが著者負担による出版であった。47号,49号,50号の3冊がそのケースである。しかし,この方法も3冊で滞ってしまった。本会の本旨とも言うべき『山書研究』の発行停止状態を何とか打開したいものと苦慮しているのだが,有効な解決策を見出すことができないでいる。
内容は,収録記事を掲げたので,参照されたい。
本会の目的である「山岳関係文献を多角的に研究することを目的とする」はさておき,造本についても造詣の深い会員が多い。本を大切に所蔵したいという気持ちは誰にでもあることだが,それを一歩,推し進めると内容に相応しい衣裳(装幀)であって欲しいと願うようになり,具体的な発現が特装本の発行であった。その嚆矢が1967年7月15日に発行された『山書研究』8号の別装版,J. A. Dabbs著,水野勉訳『東トルキスタン探検史』であった。この頃の印刷は,活版より費用の安いタイプ印刷なので本文の出来栄えを云々することは論外だが,少なくとも装幀だけは立派にしたいという願望があった。布装,角背上製本といった体裁であり,『山書研究』の並製本を上製本にしただけでも見栄えは格段に向上している。会ではこの後,『近代日本登山史年表』『山と人・山岳』『北の山と人―その登山史的展望―』の特製本を発行したが,特筆されるのは『山書研究』21号― 黒岩健『登山の黎明―『日本風景論』の謎を追って―』のことである。と言うのは,この「山書研究」21号は本会にとって初めての活版印刷であったからだ。さらに内容にあった。わが国で志賀重昻の「登山の氣風を興作すべし」(『日本風景論』所収)と言えば,初期山岳文献のバイブル的存在として評価されてきた。だが,黒岩は「登山の氣風を興作すべし」は,登山の実績が左程ない志賀に書けるはずがない,何か種本がある筈だと見当を付けたのである。ここから黒岩の文献探索が始まり,ついに種本を突き止めたのだった。Francis Galton, Art of Travel(1855)がそれである。両書を比較対照してみると,「登山の氣風を興作すべし」は『旅行術』からのコピーに間違いなかった。志賀は引用について一言も触れていないばかりか,恰もオリジナルという印象を読者に与えるものだった。黒岩はこの点を踏まえて「剽窃」と断じているが,表現はともかく志賀の仮面を剥ぐことに成功したのだった。本書『登山の黎明』は,わが国の山岳界に少なからず衝撃を与えたのだった。特製限定本は本文用紙を洋紙から和紙にかえ,総革装,函は内部にビロードを貼付という凝ったものだった。さらに2冊だけだが,世界的な装幀家テニー・ミウラ女史(Kerstin Tini Miura)による装幀本がある。
ところで『登山の黎明』の製作担当は上田茂春であったが,これから後の特製限定本の製作はすべて上田によっている。わが国の山岳書には限定本がかなり目に付く。しかし商業出版社が手がけた限定本は概してチープなものが多く,目の肥えた愛書家を満足させるにはほど遠い出来栄えのものが多かった。その点,本会の限定本はコストパフォーマンスが高く,立派な限定本に仕上がっていると自負している。それを可能にしたのは,人件費が実質的に零であり,その分,材料・製本費用に充当していたからである。とは言え,出版・印刷・製本業界も時代とともに変革が進み,昔ながらの職人も激減,手間のかかる少部数の限定本を手がけるところは極めて限られてしまった。
本会の出版はこぢんまりとしたものであり,一般の流通機構とは無縁である。そのため,新刊書店に配本されることは皆無だが,ただ1冊だけ例外がある。それは山岳雑誌『山と溪谷』1976年1月号の別冊付録として添付された「山の名著 BEST100」である。数名の会員が分担して,わが国で出版された山岳書から100冊を選び,簡単な解説を付したものだが,山岳書の案内書として好評を博した。あと1冊,『登山の黎明』が著者の意向により本会を離れ,商業出版社から本文を写真製版した新装版が発行されている。
山岳書研究に欠かせないのが,文献目録の類いである。最近でも年度ごとの断片的な文献目録は垣間見るが,総合目録ともなると1971年に発行された『世界山岳百科事典』(山と溪谷社)以降.途絶えたままになっている。そんな現況に鑑み,大学図書館勤務の野口恒雄を代表に関西在住会員7名が山書総目録編集グループを結成,最初の目録を『山書研究』36号(1991年)として完成させた。副題「山岳関係図書目録〈和書〉1975-1987」が内容を物語っているが,残念なことは継続の意思があったにも拘わらず挫折してしまったことである。目録の作成は,多大な労力と忍耐を要する極めて地味な作業である。このグループは,能力的には十分すぎるほどのスキルを有していたが,諸般の事情により能力を存分に発揮することなく1冊だけで終わってしまった。
現在の山岳書商業出版は,だいぶ前から業績不振に陥っている。山岳関係のどの出版社も,膨大な費用を要する総合目録を作成する余力は全くないのが現況である。それだけに,継続していたならばという思いが強く残っている。