• Japan Alpine Book Club

1、創立から小野体制まで

      日本山書の会のあゆみ

       上田茂春、沖 允人

1、創立から小野体制まで

本会創立の中心人物は川崎隆章であった。川崎はわが国を代表する山岳書専門出版社,山と溪谷社で雑誌の編集に携わっていたが,業務遂行の傍ら,兼ねてから山岳書研究の重要性を感じていた。そのことが,山岳書を専門に研究する団体設立の動機だった。
川崎はまず協力者を求めた。第1回創立準備会が1962年3月1日に開かれたが,出席者は川崎,斎藤一男,小野敏之の3名であった。登山家として名の知られた斎藤は,川崎とは顔なじみで雑誌の寄稿者でもあり,また有能な文筆家でもあったので,発起人として適任者であった。だが,もう一人の小野について全く面識がなかった。そんな彼が発起人の1人として名を連ねることになったのは,社員の一人が小野のことをよく知っていて,彼は凄い山書蒐集家であると進言したことだった。
続いて第2回創立準備会が5月7日に行われたが,出席者は第1回の3名に加えて,小澤観一が加わっていた。彼は斎藤と同じ会社に勤めていて山岳会員同士でもあったので,彼の参加は斎藤の推薦によるものと思う。さらに5月24日に行われた第3回創立準備会には,新たに長谷川勇,三谷良一,能勢信二,野口冬人,水野勉,千田岩男,澤村幸蔵が加わった。何れも川崎が編集する雑誌の執筆者,あるいは岳人として川崎とは旧知の仲であった。
6月5日に開かれた第4回創立準備会を経て,6月12日に創立総会が日本山岳会ルームで催された。出席者は20名,設立趣意書が配布された。

【日本山書の会設立趣意書】
登山と山岳書は表裏一体、不可分の関連があり、およそ山岳を口にし、登山に興味を抱くほどの人で,山岳書に目を通さないならば、その人の山岳観に疑いをもたずにはおられません。
このような意味から、また私たちの信念から、「読み・書き・且つ登る」ことにより、登山が完成するものである以上は,私たちは古今の山岳文献を研究し、人に知らしめ,また知るために、ここにこれら同好の士相寄り、山書研究を共同して行なおうとする意欲をもって、本山書会を設立しようとするものであります。
本会は、その目的を達するために機関誌を発行するとともに、後続の登山家を啓発することを使命の一つに置きたいと念ずる次第であります。
主な事業
◎ 研究会  月一回定期開催
◎ 同人雑誌の発行(題 未定)
◎ 文献の紹介と今後出現さるべき山書についての意見
◎ その他必要と認める事項
◎ 同人中より互選によって世話人を選出し、本会の運営を委任する
◎ 会費(未定)
「註」細目は追って総会で決めます。
発起人
川崎 隆章(日本山岳会々員 山と渓谷社 編集長)
長谷川 勇(山村民俗の会々員 憧稜登高会 顧問)
斎藤 一男(山岳同志会 代表 第2次RCC事務局長)
小野 敏之 (三菱製紙山岳部々員)
小沢 観一 (東京電力山岳連盟幹事)

この「趣意書」に記された「読み・書き・且つ登る」は,川崎によって登山者のあるべき姿を簡潔に示したものであり,名言であった。このフレーズは本会員のみならず山岳界にも敷衍し,人口に膾炙した。
創立総会は規約,役員の承認など,滞りなく進行,「日本山書の会」はこの日をもって正式に創立された。役員は、会長・川崎隆章,会務幹事・小野敏之,小澤観二,編集幹事・長谷川勇,斎藤一男,水野勉という顔触れであった。「規約」には「目的」「会員」その他,会運営の基本事項が記されている。

【日本山書の会 規約】
一、(目 的)山岳関係文献を多角的に研究することを目的とする。
二、(会 員)会員は日本山書の会(以下会という)の運営・事業などに平等の権利をもつ。
三、(入退会)また、会の事業や研究集会に参加し、会費を納入する義務をもつ。
研究意欲のあるものは、だれでも入会することができる。また、退会は自由であるが、文書で届出る。
四、(事 業)1 種々の命題によって研究活動をおこなう。
2 研究結果について機関誌「山書研究」を発行する。
3 その他、目的に従ったもの。
五、(組 織)1 会の運営のため左の役員をおく。
会長 一名
会務幹事 若干名
編集幹事 若干名
2 役員は総会において、会員の互選により選出する。
3 役員の任期は一年とし、期間は会計年度に準じる。ただし、役員に欠員があるときは
役員会において補欠選定し、前任者の残期間を任期とする。
4 研究集会は必要に応じてひらく。定期の総会は年一回とするが、必要があれば臨時に総会をひらく。
六、(会 計)入会金は五百円・会費は半年分六百円を納入する。
七、(改 廃)この規約の改廃、その他運営の重要事項については、総会できめる。
八、この規約は昭和三十七年六月十二日から効力を生じる。

この「規約」によると,入会について「研究意欲のあるものは,だれでも入会することができる」とあるとおり,会員の推薦とか登山経歴,その他の条件などは一切なく,門戸が広く開かれていた。これは現在も変わるところがない。とは言え,設立の頃は本会の認知度はごく限られていたので,会員は川崎の伝手や雑誌『山と溪谷』誌上の会員募集広告によって確保していた。
このようにして設立された日本山書の会だが順風満帆とはいかず,会の運営が安定するまでの数年間は茨の道を歩むことになった。
このあたりの事情を,小野敏之は「『月報50号』のあゆみ―会史の断面―」(『山書月報』50号,1967年3月6日)で次のように記している。
「早いもので、今号で月報も50号を数えるようになった。ひと口に50号と言えば簡単であるが、そのあゆみは平坦な道ばかりではなかった。
1・2号の体裁からも判るように、最初は会の運営誌程度に考えていた。月報と言う名はつけても、必ずしも毎月出すものと思っていなかった。
会員は,はじめの頃川崎さんの伝手で、当時の登山界の著名人が集められ、その他は、山溪への広告で応募した若干名で、加えて四十名程度である。
最初の名簿によると、石渡清、長尾宏也、坂部護郎、川喜田二郎、石岡繁雄、杉本光作、藤江幾太郎氏などの名前が見られるが、これらのひとびとは、多分会費は一回分か、最初から未納入の会員だったと思われる。
創立の頃は川崎会長を中心に、長谷川、斉藤、小沢、小野が会務と編集の幹事を分担し、会務幹事が集会、会計、人事などの事務的なこと、編集幹事が月報の編集を行い、研究発行の場合は、その都度スタッフを増員して行った。
当時、会員はまことに不安定で、名前だけの会員はとも角、退会届けもなく自然に消えて行く人が多かった。月報1号の編集者小沢氏は東電山岳部のリーダーで幹事の一員であったが、1号一冊を編集したまま音信不通となってしまった。研究2号は内容のすぐれた号であるが、おはずかしい程の誤字・脱字の多い号で、この号のチーフ・スタッフ小出氏は、やはり、この号一冊を編集したあと、いかに連絡しても梨のつぶてでそのまま会との縁は切れてしまった。
有力会員でもこのような状態だから、後はおして知るべしで、初期会員41名中、引き続き在会する者は16名である。
月報10号前後を見ると、集会の集まりの悪いのが目につく。創立の頃の研究集会には、必ず十数人が集まり、明日の会を熱っぽく話し合ったものだが、時とともに集まりが悪くなり、ひどい時には三人で、狭い山岳会ルームが寒々と思われたことを覚えている。
入会者より退会者、会費未納者が上まわれば、会の財政は逼迫し、月報を出して残金二、三百円と言う時代もあった。(中略)
月報の13号までは会事務所は平井の斉藤さんの自宅にあった。14号から現在の文京区の小野宅に移ったが、これは斉藤さんが社務のため長期出張して家を明けられることが多く、会務が停滞するようになったためである。
この頃から、チーフ・スタッフは小野、水野、平田の三人となり、連日のように協議した結果、会の財政立て直しのため会費滞納の会員を切るとともに会員募集による会員増を計った。現在行われている、月報の毎月定期発行、三木会の開催、研究年二回発行の厳守はすべてこの頃の成果である。(中略)
やはりその頃のことである。川崎会長より一通の手紙が届いた。その内容を詳しく覚えていないが、会に対する批判とアドバイスであったことは確かである。
会の立て直しの最中であり、加えて、その頃発行された『山岳展望』に川崎氏の「わが一本」が掲載されているのを見て、あれやこれや納得が行かないまま批判に答える気持ちを便りに託した。ほどなく川崎さんは会長を辞任され会もやめられてしまった。(後略)」
ちょっときつい内容だが,当時の切羽詰まった小野の心境が忌憚なく表出されている一文ではある。この文章から読み取れることは,役員間の意思疎通に齟齬が生じたことが一因となり,創立当時の熱気は次第に失せて会が存亡の機に直面していたことである。『山書月報』の奥付を見てみると,1963年11月に発行された12号までは「会事務所 江戸川区平井・斎藤一男方」となっているが,翌月の13号は「会務連絡所 文京区駒込神明町・小野敏之」と「会事務所 江戸川区平井・斎藤一男」が併記されている。そして,5月発行の16号になると「斎藤一男方」は消えて「小野敏之方」だけになる。また「発行人 川崎隆章」の記載は16号までで,17号からは「発行 日本山書の会」に変わっている。これは会を再構築し,名実共に小野体制の確立を示すものであった。
斎藤一男は登山家,ライターとしてはきわめて有能であったが,実務能力に欠けている嫌いがあった。その点,小野敏之は極めて几帳面な性格であり,実務能力に長けていた。会の消滅に危機感を抱いた小野は,会事務所を斎藤宅から自宅に移し,不良会員を一掃するなど会の再建に盡力した。例会も駒込の小野宅で催すようになった。例会場となった小野宅は交通の便もよく,紛うことなく膨大な山書で埋め尽くされていた。例会出席者はこれらの山書を拝見することによって痛く刺激され,蒐書意欲を大いに掻き立てられたのである。例会場を小野宅に移したことは会員の親睦を深め,活気をもたらす効果があった。
会員の動向だが,1964年9月現在とある「会員名簿」を見てみると56名が記載されているが,発起人5名のうち川崎隆章,長谷川勇,小沢観一の3名が消えている。会の活動の基本となった「月報の毎月定期発行,三木会の開催,研究年二回発行の厳守はすべてこの頃の成果である」というのも,小野が確立したものであり,「研究年二回発行」を除き,「月報の毎月定期発行,三木会の開催」は現在も連綿と継承されている。
以上のように,小野は本会にとって,中興の祖とでも言うべき存在であった。
なお例会を「三木会」と称するのは,例会を毎月第三木曜日に設定したことによっている。ちなみに第1回三木会は1964年2月20日に小野宅で行われている。